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AIN'T EASY

FE小説が主

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小説(1)

 
猛省しながら書いています

 
 しなやかな女の手を振り払って、彼は駆けだしていた。その直後に女が何かを叫んだ。だがそんなことはどうでも良かった。なぜ彼女があんなところにいたのか。彼は咄嗟に考えた。分かるはずもなかった。
 これもまた神の見えざる手によって、はじめから仕組まれていたものだったというのか?
 そんなことは――ありえない。
 彼の眉根が思わず寄った。
 いずれは周知の事実となってしまうだろうと覚悟はしていた。しかし、いくらなんでも早すぎる。
 すこしでも自分の体を隠そうとする獣のように、彼は無意識に暗がりへと飛び込んでいった。
 そもそも暗闇は、あまり好きではなかった。特に月のない夜のそれは、思考を惑わす。
 手を差し伸べても、声をあげても、若しくは呟いても、嗚咽しても、怒りに駆られて喉を嗄らしても、 その場にうずくまっても、闇はただ澱んだ絵具のように彼の背後に、足元に、眼前に垂れている。
 泣きたいのか単に寝不足が祟っているのかわからないまま、彼は視線をさまよわせた。
 そこには彼の知っているものは何も存在しなかった。
 感じられるとすれば草木の息吹や先ほどまで降っていた雨の残り香といったものばかりである。
 彼は少しむせた、そしてなぜ自分がここにたどり着いたのかを理解した。
 遠くで甲高い声が聞こえた。
 女だ。
 彼はそれが誰であるかを知っていた。
 彼女は誰かを呼んでいた。
 胸が痛んだ。
 彼は反射的に口許を押さえた。
  


       ◆◆◆


「お疲れのようね」
 声は背後から降ってきた。すこし呆れたような気だるいような、ともかくそれは機嫌の良い声ではなかった。
アランは振り向きもせずにそうか、と早口で答えた。「いつまでそうやっているつもりなの?」
間髪いれずに不機嫌な声は続ける。「あたしが云っているのは今あなたがやっていることじゃないからね」
わかっているとは思うけど、という一言も彼女は付け加えるのを忘れなかった。
 彼は鎧を磨く手を休めずにまた、そうか、とだけ云った。
「呆れた」
 不意に、彼女――フィーナの髪が彼の視界にちらついた。
「人の話くらいちゃんと聞きなさいよ」
「そうか、」
「ねえ、ちょっと、あたしを馬鹿にしてるの?」
 彼女の声に明らかに苛立ちが混ざり始めていた。実際彼女は怒っているように感じられた。
 彼はようやく作業を中断し、彼女の眼をまっすぐに見た。
 刺々しいなにかが浮かんでいるように見えた。
「……馬鹿になんてしていない」
 アランはゆっくりと瞬きをした。自分についての風評は把握しているつもりだった。
 顔色の悪い、真面目で、陰気な男。
 だから余計にわからなかった。
 彼女はなぜ――あの時のように、自分に声をかけるのか?
「じゃあちゃんと答えてよ」
 フィーナの声は焦燥すらしているように聞こえた。風に流される彼女の髪が陽光に輝いた。
「答えたじゃないか」
 アランの返答に彼女が舌打ちを落とした。
「どこをどうすれば、そういうことになるのよ」
 はぐらかすのはやめて欲しい、と彼女はまた付け加えた。
「馬鹿にしていない、といま答えたばかりだ」
 彼はそう云うと視線を落とし、休めていた手を再び動かし始めた。
「やっぱり馬鹿にしてるじゃないの!」
 彼女は彼の胸ぐらをつかんだ。「騎士さまだかなんだか知らないけど、人を見下すのもいい加減にしなさいよね!」
「……ではもうわたしとは関わらないことだ」
 彼は彼女の目を見なかった。低く唸るように、いつの間にか言葉は洩れ出ていた。
 彼女は更に激昂することもできた。
 だがしなかった。
 


       ◆◆◆  



 血痰、というものを初めて見たのはいつだったろうか。
 自分には無縁なものと思っていた。思いたかった。
 咳をするたびに、本当はどこかで怯えているのだ……
 自分の手のひらさえ、
 見ることの出来ない瞬間がやってくるのを。



       ◆◆◆


 無遠慮に扉を開け、フィーナは薄暗い室内に足を踏み入れた。部屋の中はたった一本の蝋燭しかなく、
遠慮がちなその明かりが彼女の不安をかきたてた。燭台は寝台の傍にあり、横たわった男の表情をわかり辛くさせていた。
 起きているのか寝入っているのか、考え事をしているのか、泣いているのかもわからない。
 彼女はその場から動かずに声をかけた。「起きている?」
 返事はすこしの間を置いて返ってきた。だが声が低すぎた。
「なあに? 聞こえないわ」彼女は自分の声がわずかに震えていることに気がついた。
相手はまたも何かを云った、先ほどよりは大きな声で。それでも彼女には「すまない、……の調子……」
としか聞き取ることが出来なかった。
 彼女は寝台の脇まで歩を進めた。いくぶん男の顔色がわかるようになった。
 彼は身を起こそうとした。
「寝てなさいよ」彼女は気品のある声で云った。「倒れたそうじゃないの」
 たいしたことないさ、と彼はもごもごと云った。
「たいしたことはないんだ」彼は繰り返し云った、それしか教えられていないおうむのように。
「……大丈夫なの、しばらくは休むの?」
 フィーナは彼の額に手を当てた。「すこし、熱もあるのね」
 彼は眼を細めてたいしたことはない、と呟き瞼を伏せた。その伏せられた瞼の下で、視線があちこちに揺れた。それは何かを言いかねているようにも、彼女の言動に戸惑っているようにも見えた。彼女は口ごもった。
「直ぐに復帰でき――」わずかな沈黙の後、告がれた言葉は未完に終わった。
 彼女の、彼の眉根が寄った。その直後に彼が枕元にあった手拭いを口に当て、背を向けた。激しい、だが篭ったような咳が何度か続いた。その度に彼の肩は揺れ、細い呼吸音が彼の背中を強張らせていた。フィーナの手は振り払われ、その手のひらには生暖かい温度だけが残った。
 彼女はその手で彼の背を何度かさすった。どうして良いかわからなかった。
 ただこうすれば彼の咳が早く治まるような気がした。
 それが功を奏したのかどうかはわからないが、しばらくすると咳は鎮まり彼の荒い息だけが聞こえるようになった。
 その息遣いも次第に落ち着き、それと同時に彼女の手の動作もゆるやかなものに変化した。
「……大丈夫、なの?」彼女はたずねた。自分の声が他人のもののように感じた。愚問であることはわかっていた。
 彼にとってもおそらく苦痛であろう質問であることもわかっていた。
 だが彼女は口にしていた、何を云えば良いかわからなかった。
「たいしたことはない、大丈夫だ」
 彼は何事もなかったかのようにこたえた。だが振り返ったその顔は、あきらかに生気を失っていた。
「とてもじゃないけど」フィーナは咄嗟に云っていた。
 彼に触れていた手のひらが突然冷たくなった気がした。「大丈夫には見えないわ、当分は静養したほうがいいんじゃないの?」
 彼は上体を起こした。少し億劫そうだった。彼の眉間に深いしわがきざまれていた。
「大丈夫だ、……心配ない」彼は彼女の眼を見据えて云った。
 その双眸は相変わらず疲労を隠し切れずにいた。
 彼は不意に眼を逸らした。
 しばらく沈黙が流れた。
 やがてフィーナの耳に、掠れた声が届いた。
「馬鹿ね」
 フィーナは困ったように笑んだ。
「お礼なんて云う暇あったら、早いとこ休んで元気にならなきゃ」

 背けられたままの彼の顔に、朱がさした気がした。


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